母の日
子供の頃大嫌いだった母の日
僕が9歳になるかならないかに家を出て行ったお母さん。もっと前だったかそれも記憶定かではない。
ある日学校から帰って来るとコタツの上に
「お風呂に行って来ます」と書かれた僕宛ての置き手紙。その上に置かれた小遣い300円。その瞬間に頭の中をよぎる絶望の予感…。
この出来事がおこる前に一度お母さんが家を出て行くという話しをお父さんから聞いたことがあって。僕ら兄弟三人を集めてお母さんの前で話し合いをして、その時は出て行かないって話しになって。理由は言わなかった。
僕は物心ついた時から両親とは別居生活で。路地を挟んで二軒隣に両親が住んでる焼き鳥屋兼住居があって。僕ら兄弟と爺ちゃんと婆ちゃんがいわゆる実家に住んでて。
実際同居して親代わりに育ててくれたのは爺ちゃんと婆ちゃんで。両親とはひとつ屋根の下では暮らしたことがなかった。
とくにお母さんとは実家で一緒に食事をした記憶もなくて。食事の用意も婆ちゃん。
夜ご飯はたまにお母さんが作っても焼き鳥屋の小窓から作ってくれたご飯を取りに行くというなんとも奇妙な光景。だけどそれが何か楽しかったなぁと思ってたのはまだ子供だったからかな。
確か学校が休みの前日にたまに二軒隣の両親の住む家で寝泊まりしてたのは覚えてて。
夜お店してるので外が明るくなっても寝てるお母さん。ずっとカーテンが閉まりっぱなしの部屋。
一度だけ寂しくて平日の夜に実家の物干場から屋根を伝わって両親の家に行きお母さんのベッドで寝た記憶があり。その時の温もりが僕が感じた最後のお母さんの温もり。
300円を置いてお風呂に行って来ると置き手紙をして家から居なくなったお母さん。
昨日まで居たお母さんが居なくなった悲しみと絶望。
それから40年…その後一度もお母さんの姿を見たことはなくて。何処にいるのか生きてるか死んでるかも知らない。
僕の生まれ育った地元の喫茶店のマスターから数十年前に一人でマスターの喫茶店に訪れたと言う話しを聞いたこと。
数年前に僕の地元のお祭りでお母さんの仲良しだった僕の友達のお母さんから、僕が知ってると思いふと僕のお母さんが亡くなったって話しをしそうになったこと。
でも実際は未だに生きてるか死んでるかも知らない。探そうとも思わない自分の心が正直でもあり、だけど悲しい。
小学校で注文する母の日のカーネーションも
お母さんが居なくなった時から嫌いになり。
親が来る参観日や行事ごとも嫌で。
親代わりで来てくれる婆ちゃんも恥ずかしくて嫌で。遠足とかで作ってくれるお弁当も。
お母さんが作ってくれてるであろう友達のお弁当みたいに美味しそうでなくて。
友達に「お腹痛い」って陰で一人で食べたお弁当。
ゴメンね…婆ちゃん。
だけど僕はお母さんが居なくなってから大人になった。
悲しい思いを胸に秘めて
大人なったんだ。
そんな母親代わりだった婆ちゃんも
もう二十年近く前に天国に逝っちゃったけど
母の日のカーネーションは僕にとっては婆ちゃんの日のカーネーション。
唯一手元にあるお母さんの写真
抱っこされてるのは兄貴、長男
僕とお母さんの写真はない
本当にこの一枚だけ。
色褪せた写真と数少ないお母さんの記憶…
お母さんとの思い出は
デパートに連れて行ってもらったこと
喫茶店について行ったこと
悲しいぐらいに思い出と言うものがない
お母さんと二人の思い出が…。
もしお母さんが家を出て行かなかったら
今頃どんな感じになってたのかも
全く想像もつかない自分だけど。
そんな僕が言うのも何だけど
今お母さんが存命な人はお母さんを大切にしてあげてくださいね
どんなことがあっても
自分を生んでくれたお母さんを…。
2020年5月10日
人類が初めて体験してる
コロナ渦の中
母の日の記憶と記録として
#母の日
#お母さん
#大切に